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現役を引退する阿部勇樹とジェフの関係

 選手人生はいつかは終わりの来るもの。
 先日世間をにぎわせた阿部勇樹の引退発表も状況を踏まえれば予想できるものだったはずですが、一報を聞いた時には思った以上にショックというか、自分の中に複雑な思いが湧いてきました。
 奇しくも今年はジェフ30周年でジェフの歴史を振り返る企画が多数出ていますが、ジェフ時代の阿部勇樹を知らない方も増えているでしょうから、ここでは私から見たジェフと阿部の関係性をまとめておきたいと思います。


www.urawa-reds.co.jp
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 今でこそ、世間一般にはジェフの偉大な選手と言えば、巻誠一郎というイメージが強いかもしれません。
 巻はドイツW杯で日本代表に選出されて一躍時の人となり、一気に注目度と人気を高めていきました。
 しかし、あの時オシム監督も「阿部が選ばれなくて残念」とコメントを残していたほど当時から阿部の能力は高く、飛躍を遂げたジェフを牽引してきたシンボリックな選手として、チーム内では巻以上に存在感の強い選手でした。

 もちろん巻も当時から人気はあって、その泥臭いプレースタイルからオシム監督のサッカーに必要不可欠な存在であったと思います。
 ただ、駒澤大学から加入した巻は、オシム監督と同じ2003年にジェフに入団したのに対し、1歳下の阿部はユースからジェフに所属。
 しかも、当時のジェフは選手層が薄く、"学徒動員"と言われるほどユースの選手たちを積極的にトップに引き上げていたため、阿部も1998年に当時最年少となる16歳333日で公式戦に出場しています。


 さらに、阿部も尊敬していたユース出身の先輩である山口智酒井友之は、上位チームに早々にステップアップ。
 当時ジェフは今とは異なり経営も厳しく、施設面でも悩み、観客動員数も下位で、毎年のように残留争いに関わる状況でした。
 降格すればクラブ消滅すらあり得るのではないかと噂されるほど厳しい状況でしたが、その中でも阿部は長くジェフに残り奮闘し続けていました。

 阿部自身も最年少デビューは果たしていたものの、当初はそこまで目立っていなかった印象もあります。
 本人の控えめな性格や後方のポジションというのもあったのかもしれませんが、少なくとも私の周辺では(当時はネットでの議論も活発ではなく偏った見方である可能性も大きいですが)佐藤寿人や山岸、工藤など、攻撃的な選手の将来に期待する意見が多かった。
 もちろん阿部も人気はあったし、凄まじいCKを蹴ったことやビジュアル面で話題になってはいましたが、それでもまだ頼りなさも残る若者といったイメージでした。


 さらに、若い頃の阿部の悩みは、大きな怪我が非常に多かったこと。
 ユース代表でも主軸として期待されていたエリートであるにも関わらず、合宿が始まる度に負傷してチャンスをふいにしていました。
 その後、鉄人のような働きを見せますが、当時は"ガラスの右足"とも言われるほどか弱い選手でした。

 それでも1999年からはレギュラーとして抜擢されると、2001年には祖母井GMの下進めてきた欧州路線と若手育成が開花し1stステージ2位を達成。
 そして、2003年にはオシム監督が就任してキャプテンに任命され、2005年・2006年にはクラブ史上初のタイトルからナビスコ2連覇も果たし、名実ともにジェフの看板選手となっていきます。
 成績だけでなくホームも臨海からフクアリに移り、観客も一気に増え、スポンサー回りも充実し始め、大きくクラブも変化を迎えるわけですが、そこに至るまでにはクラブも阿部本人も紆余曲折があり、まさに苦楽を共にした関係でした。


 だからこそ、阿部とジェフには深い絆が生まれていたはずです。
 しかし、2006年にオシム監督が日本代表に引き抜かれると、クラブも大きな混乱を呼び、成績低迷もあって一部サポーターからはキャプテン阿部を糾弾する弾幕も出てしまいました。
 すると、阿部はコメントを残すこともなく、翌年浦和に移籍してしまいます。

 それまでも予算の厳しいジェフは崔竜洙、村井、茶野など、毎年のように主力選手が抜けていましたが、阿部だけはクラブに残ってくれるだろうという期待がありました。
 例え移籍しても海外移籍だろうという願望も強く、本人もそのような発言をしていたはずです。
 しかし、最終的には国内移籍となった上、当時はライバルだった金満チームというイメージのある浦和に移籍したこともあって、ジェフサポにとっては悔しい思いを残す形となりました。


 それ以降、阿部はジェフを避けているような印象も受け、2010年南アフリカW杯選出時には多少のコメントがあったものの、大きく交わることはありませんでした。
 わだかまりというか、モヤモヤするものが残った印象があり、いつの間にか阿部が昔語っていた"ジェフ愛"も"オシム愛"に移り変わっていたように思います。
 その後、ジェフはJ2に定着し阿部と戦うことすらほとんどなかったため話題にもなりませんが、当時の阿部とジェフとの強い関係を知っているからこそ、阿部に対しては今でもいろんな思いが過ってしまいます。

 J2に降格してからのジェフは村井、茶野、勇人、山口智、寿人など多くの選手が復帰し、それぞれ退団時のいざこざはなかったことになっている部分もあるように思えます。
 ただ、戦力的な観点でいえば、全盛期は他チームでプレーして、旬を過ぎてから復帰しているわけですから、あまり良い方向とは言い難いでしょう。
 消極的な手法で、見方によっては年金チームのようになってしまっているようにすら思えますし、個人的には賛成しかねます。


 しかし、阿部に関しては上記の通りジェフの歴史において極めて特別な選手だったと思いますし、阿部退団時にはジェフにも大きな問題があった。
 それだけに戦力的な意味ではなく、お互いのわだかまりを解消するために、戻ってきてほしいという思いも多少はありました。
 ただ、阿部の場合は気軽に復帰できる状況ではないはずですし、復帰となれば阿部にも大きな負担がかかるでしょうから、これで良かったのかもしれません。

 今回の引退会見でも基本的には浦和の話がメインで、ジェフに関して突っ込んだ話はなかったようです。
 状況を踏まえればそれが当然ですが、最後までモヤモヤは残ったまま終わるんだなぁとも感じてしまいました。
 それも阿部らしいと言えば阿部らしいのでしょう。


 ただ、考えてみると、阿部がどこに行っても愛されたのは、そのクラブやそこにいる人たちを本気で愛することが出来る優しい性格の持ち主だからでしょう。
 そのため、今回の会見で"ジェフ愛"ではなく"浦和愛"を語るのも、必然と言えるのかもしれません。
 最後の会見でも涙を見せたことに関しては、年を重ねて逞しくなっても"泣き虫"なところは変わらないんだなとどこか嬉しくも感じました。

 だから、ジェフとしては阿部を待つのではなく、阿部のようにジェフを本気で愛して、ジェフのために本気で戦える選手を育て上げることが求められるのだろうと思います。
 イングランドでもプレーし、W杯でも活躍した阿部が、現時点でジェフ出身の最高傑作であることは紛れもない事実。
 それを上回る選手を育て上げ、ジェフも当時を上回るチームを作り出すことが、阿部とのモヤモヤを解決する唯一の策なのでしょう。


 最後に、阿部というと私が思い出すのが、2006年にハットトリックを上げた鹿島戦
 この前の試合でジェフは浦和に0‐2で敗れているのですが、この試合では15分と早い時間帯に結城が退場になってしまった。
 阿部は結城と仲が良く、その結城を補うかのように浦和戦、鹿島戦と鬼神の如く攻守に関わり、ピッチを制圧していきました。

 阿部の優しさと強さを感じた試合で、あの頃の阿部はジェフのみならず相手選手も含めて、ピッチ上で一つ抜けた存在感を見せつけており、国内では収まり切れない選手になったのではないかと感じました。
 しかも、この2試合はオシム監督が代表に引き抜かれて苦しい中、アマル監督が指揮を執っていたわけですが、それでも阿部は凄まじい活躍を見せていた。
 むしろオシム監督が抜けてもやれるんだという意地を感じましたし、あの時代の阿部を見ることができたのはとても貴重な体験だったのかもしれません。

 阿部は指導者を目指すということですから、浦和に残ることになるのかなと思います。
 そうであれば、いつかはジェフとJ1で対戦したいですね。
 その時までにジェフも当時ように心から誇れるような選手とチームを育て上げ、胸を張って阿部と戦えるように精進していきたいところです。
 とても遠くからの声にはなってしまいましたが、お疲れさまでした。