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イビチャ・オシム監督に愛された水野晃樹が現役引退を発表

 ジェフでも活躍した水野晃樹が現役引退を発表しました。
 水野も39歳になるんですね。
 お疲れ様でした。

grulla-morioka.jp

 水野のエピソードはたくさん出ていると思いますが、私の記憶も含めてお話しすると、2004年に清水商業からジェフに加入。
 育成枠からのプロ入りということで、苦労人というイメージもありますが、実際には大学推薦の話が流れた結果、ジェフに加入したという経緯だったはずです。
 当時は今のように情報を集めるのも簡単ではなかったですが、総体でも活躍していたようですし決して無名の選手と言うわけではなかったと思います。

 周囲としては、非常に線の細い選手でしたから、大学で体を鍛えてからプロに行くことを勧めたのかもしれません。
 しかし、オシム監督は水野の 2歳下に当たる加藤韻も、高校2年の段階で即プロ入りを進めたくらいですから、体作りも含めてプロでやるべきだという発想だったのかもしれません。
 それだけ育成に関する自信が、オシム監督にも当時のクラブにもあったのかなとも思います。


 ジェフに加入した水野ですが、すぐには出番を得られず。
 しかし、怪我人や代表参加による離脱もあって、加入1年目の7月に行われたレアル・マドリードとの親善試合で途中出場を果たします。
 そこから少しずつ出場機会が増えていきましたが、それでも1年目は7試合の出場でした。

 転機となったのは、その年のオフに村井が磐田へ移籍したこと。
 これを機に右WBで起用されていた坂本が左WBに移ることが増えて、水野も右WBとして25試合に出場。
 その年には、ワールドユースにも日本代表として選出されました。

 続く2006年も、イビチャ・オシム監督からアマル・オシム監督に移り変わるも25試合に出場し、クラブ2連覇を果たしたナビスコカップでは決勝で活躍し最優秀選手賞を獲得。
 そして、2007年もアマル監督の下で29試合に出場し9ゴールと、主軸として戦いました。
 これが、水野のキャリアハイということになります。


 その年のオフ、アマル監督解任に合わせて、歴史的な大量流出が発生。
 多くの選手がライバルである国内クラブへ移籍する中、水野はスコットランドのセルティックに移籍。
 当時は移籍係数という国内移籍に対する移籍金の計算方式があって、フリーでの移籍であっても一定額以上の移籍金が発生したため、移籍金に関しては国内移籍した選手の方が残してくれたと思うのですが、心情的には海外移籍の方が歓迎されたところがあったと思います。

 ただ、その頃22歳の水野はオシム監督の日本代表就任もあって、多少の代表経験もあったとはいえ、まだまだ発展途上の段階。
 今の日本サッカーのレベルとは異なり、海外移籍は日本代表でもトップクラスの選手が多く、その選手たちも大半が苦戦していた状況でした。
 そのため、私を含む多くのジェフサポが心配していたと思うのですが、やはり2年半で11試合1ゴールという成績に終わり、途中出場が大半の結果となってしまいました。

 2010年、出場機会を求めて日本へ復帰。
 しかし、当時のジェフはJ2降格1年目で大量に選手を抱えており、A契約枠がいっぱいだったこともあって水野獲得には動けない状況でした。
 そして、まさかの柏に復帰。


 しかも、その年の柏はジェフと同時にJ2へ降格しており、直接のライバルだったわけですから、なおさら複雑な心境ではありました。
 奇しくも国内復帰戦となったのがジェフ戦で、さらにまさかの負傷交代。
 前十字靭帯で全治6カ月という大怪我を負ってしまいました。

 ジェフ退団後の水野は、度重なる怪我に苦しみます。
 本人はセルティック移籍を失敗だとは思っていないという発言を何度もしていますが、怪我が増えたのもセルティック時代からでした。
 大事な時期に出場経験を積めなかっただとか、その後のキャリアなどの問題以上に、海外移籍で背伸びをした結果、怪我が増えてしまったという意味で失敗だったのではないかなというようにも思います。


 柏で1年半、甲府で2年プレーした水野は、2015年にまさかのジェフ復帰。
 当時のジェフはOB選手を補強することが多かったですし、その流れもあっての加入だったと思いますが、水野はこの年も怪我があって1年間で退団となってしまいました。
 なお、この年は19試合1ゴールという結果ですが、この出場数は2013年の甲府の19試合に並ぶもので、ジェフを退団した2007年以降では、その2年が最多出場ということになっています。

 その後も鳥栖、熊本、相模原と転々し、2021年には神奈川2部のはやぶさFCに入団。
 2023年にJ3岩手に加入し、Jリーグ復帰を果たしていました。
 しかし、今季も8試合の出場に終わっています。


 水野と言えば、イビチャ・オシム監督が好きな日本人選手を聞かれ、答えた選手としても有名です。
 個人的には、なぜ水野を選んだのか、オシム監督の中でも、気になる言葉の1つだと思っています。
 オシム監督のことですから、それが本気の発言なのか、真に受けるべきなのかも含めて迷うべきではありますが。

 もちろん水野が良い選手であることは間違いないですが、厳しく言えばそこまでずば抜けた選手でもなかったと思います。
 スピードがあるとは言っても、脚力だけで相手を抜き去れるタイプではなかったし、クロスの質も高かったけれど、驚くようなキックを持っている選手でもなかった。
 どちらかと言えば、動きのキレで勝負するタイプだったと思います。


 積極的な仕掛けを好んだという可能性はあるでしょうが、むしろオシム監督はエゴイスティックな仕掛けを極端に嫌うタイプ。
 組織的にプレー出来て、攻撃だけでなく守備でも献身的に働き、フィジカルも重視した監督でした。
 もちろん水野も強引なドリブルではなく状況に応じてシンプルな仕掛けをするタイプではありましたが、オシムサッカーの屋台骨を支えていたのは違うタイプだったと思います。

 多分オシム監督は選手として水野晃樹を評価したというよりも、水野晃樹のメンタリティを高く買っていたのかもしれません。
 特に当時のジェフは真面目な優等生が多く、静かな印象も強かった。
 しかし、水野に関しては負けん気が強く、何よりも自分のプレーに自信を持っていて、そこを評価していたのではないかと思います。


 その点での評価は、日本代表で多くの選手を見た後も、変わらなかったのでしょう。
 もっともオシム監督は自分の発言に対する影響力も加味してコメントしていた方ですから、他の選手を上げては調子に乗ってしまうと思ったのかもしれません。
 水野はその点で名前を上げても、ぶれないだろうと期待しての発言だったのかもしれませんが、そのぶれない部分も含めて好んでいた可能性もあると思います。


 そういった性格の選手でしたから、ぜひ指導者としての成功にも期待したいですね。
 プロの監督もぶれない信念を持つこと、自分に自信を持って指導することが大事な役職だと思いますから、メンタル的な素質はあるのかもしれない。
 選手としてもいろんな経験を積んできたわけですから、それをうまく活かせるといいですね。
 
 水野もついに引退ということで、イビチャ・オシム監督時代のジェフ選手たちも現役選手がほぼいなくなってしまいました。
 「ほぼ」といったのは、鳥栖の岡本昌弘がまだ頑張っていることからですが、岡本は立石・櫛野の壁に阻まれてリーグ戦初出場となったのは、アマル・オシム監督が就任してからでした。
 そのため、イビチャ監督というよりアマル監督時代から活躍した選手と言ったイメージが強いですが、岡本は2003年のナビスコ杯G大阪戦でプロデビューしているため岡本もイビチャ・オシム監督時代の選手とも言えることが出来るとは思います。

 引退した選手もコーチやスタッフ、さらにはJクラブ社長と、さまざまな活躍を見せていますが、やはり見たいのはオシム監督の遺志を継いだ監督ではないかと思います。
 オシム監督が偉大過ぎたからこそ、監督をやるのは怖いと思う人もいるのでしょうか。
 ただ、その点で水野は強い気持ちを持って監督の仕事を全うすることが出来るのではないかと思いますし、引退後も頑張ってほしいと思います。