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“日本人らしいサッカーへの挑戦" 前編

 いまさらですが、W杯をベスト16で終えた日本代表を自分なりに総括してみたいと思います。
 前編、後編の2つに分けて。
 日本代表の戦いを総括する…と言っても、今大会だけでなく、この4年間の流れを振り返ることが大切なのではないかと私は思います。
 といっても、自分は4年間もの活動に対して細かな分析はできないから、簡単に(笑)




 この4年間を一言で振り返るとすると、“日本人による日本代表のサッカー”への挑戦だったのではないかと思います。
 オシム監督が日本代表監督就任記者会見で言った「日本代表チームの日本化」。
 単純にドイツW杯までの4年間からの改善・改革という意味で言った部分もあるのでしょうが、日本代表が日本人の特性に沿ったサッカーをすることで、多くのチームの模範になるようなチームを作り、日本サッカー界全体を引っ張っていこうという意図があったのではないかと思います。
 もちろん言葉で言うほど簡単なことではないでしょうが、日本サッカーの土台となもののキッカケでも作れれば…と思っていたのかもしれません。



 オシム監督の就任した06年後半、日本代表は当時のジェフや今W杯でのチリ代表に近いサッカーを目指していたのだと思います。
 DFラインに1人リベロを余らせるシステムによって、後方からマークを捨ててオーバーラップをしても、サポートできる形を作る。
 その動きによって、高い位置で数的優位を作り相手を崩す攻撃的なサッカーを目標にする…と。
 運動量や切り替えの速さ、規律を重んじた動きが出来る日本人にあったスタイルを作りだそうとしていたのかなと思います。



 しかし、07年のアジアカップではそのスタイルとは違ったサッカーになっていたと思います。
 それまで招集してこなかった俊輔、高原などを起用して4バックにし、例の“俊輔システム”を採用。
 これによって大きくチームの印象も変わり、パスで崩す展開を狙ったのかもしれませんが、全体的に運動量が足りず出来の良い状況とは言えなかったように思います。


 その後、国内で海外組を外したメンバーでカメルーン戦を行いまずまずの試合を見せ、オーストリア・スイス遠征ではアジアカップでは感じられなかった運動量も少しずつ戻って行ったように感じました。
 チームとしての完成度こそまだ高くなかったとは思うのですが、特にスイス戦は今後の可能性を感じる試合だったと思います。
 しかし、残念ながらその後、オシム監督の挑戦は志半ばで終わってしまいました。
 オシム監督としては最終的にパスサッカーと運動量豊富なサッカーの融合を目指していたのでしょうか?
 しかし、個人的にはジェフ時代の成功を見ていることもあって、「なかな代表ではうまく行かないな…」という印象の方を最後まで感じていました。




 その後、岡田武史氏が日本代表監督に急遽就任。
 大木コーチも入閣し、当初は時間の問題もありオシム監督のサッカーを継続する方向でしたが、3月末のW杯予選バーレーン戦での敗戦をもって岡田監督による「俺流」サッカーに移行していきます。
 その頃の日本代表はボールを失った後に激しいプレスをかけ逆カウンターを狙う攻撃と、選手を1エリアに集中させてその脇のスペースを狙う「接近・展開・連続」が狙いだったと思います。


 正直、個人的にはその頃のサッカーに対して奇をてらった印象が強く、実際にサッカーの内容も不安定であまり良い状況ではなかったと思います。
 しかし、09年の途中あたりから、徐々に日本代表へのイメージが変わっていきました。
 細かくパスをつなぐ形も単純に1つのエリアにまとまってスペースを狙うのではなく、サイドでトライアングルを作るなど工夫が見えてきましたし、前からのプレスも強引に奪いに行くだけでなく、バランスが整備されていった印象でした。
 後編に続く。