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佐藤勇人「オシムさんを知らない世代に伝えていく責任がある」

 11月20日(日)に、オシム監督の追悼試合が行われることになりました。
 それに先立って、オシム監督の追悼試合を行う意義を、2回に分けて考えていきたいと思います。
 あくまでも親善試合ではありますが、当時を知る関係者にとっては、意外と非常に大きなものとなるのかもしれません。

 9月末にオシム監督追悼試合の発表があった時には、驚いたと同時に若干の抵抗感も覚えました。
 2005年のナビスコ杯優勝後の胴上げも拒否するなど、オシム監督は自分が目立つことを極力嫌いました。
 サッカーにおける主役は選手であるという主張をよくしていましたが、それも自身の影響力の高さを鑑みてのことだったのでしょう。


 今、オシム監督に追悼試合を行うと言っても、「そんなことをする必要はない。それより来季に向けて一日も早く準備を進めるべきだ」と一蹴されそうです。
 それだけオシム監督はサッカーに対して非常にストイックであり、それを周囲の関係者にも望んでいた。
 そういった姿勢がチームを成功へ導いたのでしょうし、選手やスタッフだけでなく、ファンやサポーターの意識も変えようとしていた監督だったと思います。

 それだけに追悼試合に対して悩む部分もあったのですが、ジェフのリリースには佐藤勇人のコメントが掲載されていました。

jefunited.co.jp

 引用禁止ですので要約すると、今の子供はオシム監督を知らない。
 サッカー界発展のためにも、知らない世代へ伝えてく必要性がある。
 当時の選手、スタッフ、メディア、ファン、サポーターにはその責任がある、という話でした。


 確かにオシム監督のことを、次へ伝えていくことの重要性は私も常々感じていました。
 勇人は「今の子供」と述べていますが、実際には子供以外の方たちも、オシム監督を知らない方が増えています。
 勇人はちょうど京都へ移籍していた時期だからピンとこない部分もあるのかもしれませんが、オシム監督退任直後あたりにジェフサポは大きく入れ替わった印象があります。

 そこは私の肌感覚だけでなく平均観客動員数で見ても、2005年は9,535人でしたが、2006年には13,393人に増え、2007年からJ1最終年の2009年まで1万4千人台をキープしています。
 この背景には2005年10月からのフクアリに移転したことと、2006年夏のオシム監督代表就任もあって、ジェフ選手の多くが代表選手に選出されたことが大きかったと思います。
 さらに、そこから10年も経っているわけですから、大人も子供もオシム監督を知らない方たちは少なくないと思います。


 もちろん「知らない」と言っても、文献や数字上ではオシム監督の実績を把握されているはず。
 ただ、オシム監督が偉大な指導者であったということはわかっても、どれだけ凄いのか、具体的に何が違ったのかはわかりにくいところだと思います。
 だから、単なる「過去の優秀な監督の1人」であると思われても、仕方のないところでしょう。

 しかし、当時を知っている者からすると、「偉大な監督の1人」では済まされないレベルでした。
 例えば「今は守備的なサッカーだからオシム監督の発想は関係ない」と思われてしまう場面でも、当時のオシム監督を知っている者からするとそうではない。
 オシム監督の考えは哲学的であり、かつ普遍的なものでしたから、どんな状況においても繋がりのあるものだったわけです。


 オシム監督が亡くなった際にも、オシム監督の教えは「サッカーの基礎を大事にせよという話に、いきつくものだった」と書きました。

yukkuriikou.hatenablog.com

 例えば、2004年にレアル・マドリードとジェフが対戦した後ですらも、オシム監督は「レアルの選手も走っていただろ」とジェフ選手に発破をかけていたという話がありました。
 当時のレアルと言えば世界の銀河系軍団とも呼ばれるスター選手揃いでしたが、そういった相手との試合後も感想は「走る」の部分だった。
 もちろんその他の細かな分析もあったとは思いますが、どんなチーム相手でも同じ視点で物事を見て、伝えることの出来る監督だったのだと思います。

 それだけ"オシムイズム"というものは、ぶれることのない普遍的な発想だったのだと思いますし、オシム監督はサッカーの教本のようなものを体現したような方だったと思います。
 だからこそ、ジェフだけでなく、日本サッカー界の多くの関係者や重鎮にも響くものがあったのでしょう。
 あの頑固そうに見えて、正反対のスタイルで戦ってきた反町監督ですらも崇拝し、オシム監督の葬儀では涙を流したと言います(ちなみに、日本サッカー協会のサイトに掲載されたている、反町監督の書いたオシム監督の関するコラムは前編後編も内容が濃く、興味深いものとなっています)。


 それだけに、オシム監督の考えを他の人にも伝えていきたい。
 未来へ残したいという気持ちは非常に強いし、勇人の意見は私も納得できるものでした。
 ただ、それをどう伝えるべきなのかに関しては、偉大な方だったからこそ非常に難しいものだと思います。

 ましてや、ベテランになった選手たちや引退した選手たちが追悼試合で、あのオシムサッカーを伝導できるのかというと怪しいものがあると思います。
 走れなければ、何で追悼試合なんかしたんだと、また怒られてしまうかもしれません(笑)
 もちろん、今回の追悼試合オシム監督がどれだけ偉大だったのかを伝えることが、まずは重要なのかもしれませんが。


 かく言う私も、オシム監督のことはジェフ時代から幾度となくブログで取り上げてきましたが、現在の方が書くのを躊躇ってしまうほど難しいものがあります。
 特にオシム監督の総括的な話になると、非常に悩ましいところがありますね。
 今回の文章も難産でしたし、以前に比べるとブログも下火ではありますが、オシム監督はサッカーを語ることを重要視にしていたところもあるわけで、そこから逃げないことが大事なのかなとも思います。

 オシム監督が倒れた後、日本代表監督を引き継いだ岡田武史監督も、このような話をしていたようです。
www.nikkansports.com

いきなりW杯予選から始まる、割に合わない仕事。断るつもりだった。神様のような方だったから、後任は余計に大変。でもオシムさんと協会が進めていた日本の発展に関するプランと説得を聞いていたら、腹の底から『日本のためにやらないと』『逃げちゃダメだ』という声が聞こえてきたんだ

 「神様のような方」というのは、岡田監督目線というより世間からの目線がそう見えたという話なのかもしれません。
 しかし、実際それだけの存在感があり、特に当時のジェフ関係者にとって、オシム監督の言葉は絶対的なものでした。

 それを良い形で、過去に伝えられるのか。
 勇人の言葉を借りればその「責任がある」ということで、当時の関係者は努力していかなければいけないのかもしれません。
 それがオシム監督が私たちに課した、最後の大きな宿題ということになるでしょうか。